2001年6月、「川本喜八郎・わが心の旅/チェコ」ツアーが開催され、全国から28名が参加、私も加わった。このツアーは、NHK「わが心の旅」シリーズで、川本先生がチェコで1年半もの人形修行したときの足跡を辿る番組に因んで、先生自身が企画したものだった。プラハのカレル橋を意気揚々と渡る川本先生の姿を忘れることができない。
ツアーメンバーの先頭で プラハ・カレル橋を渡る川本喜八郎(2001.6.4) |
1963年、川本先生は38歳でチェコの人形アニメーションの巨匠イジィ・トルンカに師事した。「チェコではどんな技術や手法を学んだのですか?」と私は尋ねた。これがどんなに的外れな質問か、この時は気付かなかった。作品というものは技術力があれば出来る、と私は思っていたのである。しかし先生は丁寧に答えてくれた。「アニメーションをつくるための技術はチェコに渡る前にすべて日本で備えていました」私「??」先生は続ける「チェコでは『人形とは何か』、ということを学びに行ったんです。僕はトルンカ先生に『人形とは何ですか』と直接聞いてみたんですね。するとトルンカ先生は『人形は人間のミニチュアではない。人形には人形の世界がある』と教えてくれたんです」
プラハにある旧トルンカスタジオ内トルンカの オフィスとして使われていた部屋で 川本喜八郎(左)、筆者(右)(2001.6.2) |
川本先生は続ける「トルンカ・スタジオの人たちに僕の作ったCMなどのフィルムを見てもらったんですね。それを見たスタジオの人たちは『君は世界に冠たる人形大国の日本から来たのに、なぜこんな(西洋風の)人形を作るんだ』って言われたんです。こういう言葉の一つひとつが目から鱗(うろこ)で、その後日本に帰ってきてから、能や歌舞伎や人形浄瑠璃を見ると、それまでとは全く違って見えたんです」先生から話を聞くうちに、私も目から鱗が落ちたような気がした。
チェコに行く前の川本先生は、テレビの黎明期(れいめいき)にあってCM制作会社を共同経営していた。そこでアニメーションに関する様々な技術を試み、習得していったという。「ワッワッワッ輪が三つ…」のミツワ石鹸のCMも川本先生による人形とアニメーションである。その時、黒柳徹子さんも人形の動きのモデルになったそうである。川本先生が私に語ってくれたことだが「CMの会社は本当にたくさんの仕事が入ってきて、一生で手にするくらいのお金も入りました」私は「えっなぜ辞めてしまったんですか?」テレビ黎明期のCM制作会社の経営者は、今に置き換えればIT産業の旗手である。先生は答える「自分の作品でないのに、毎日夜遅くまで時間を費やしていても仕方ないでしょう」さらに先生は、「ある日(1952年頃・27歳)、飯沢匡先生が、税関でイジィ・トルンカのアニメーション『皇帝の鶯(うぐいす)』(1948)がかかるそうだから見に行こうと誘ってくれましてね、仲間と一緒に見に行ったんですよ。見たら余りにも素晴らしくて、なんて詩的だろうと、椅子から立ち上がれないほど感激したんです。その時から、チェコに何としても行きたい、トルンカ先生から学びたいと思ったんです」
単身チェコに渡った38歳の川本喜八郎を 迎え入れてくれたイジィ・トルンカ(右) 生涯の師匠となった (1964年)©(有)川本プロダクション |
1963年当時のチェコは、プラハの春(1968年)より前、チェコスロバキア社会主義共和国(1960-89)の時代。川本先生は当時のプラハの街を「暗くて荒々しい街」と表現している。現在の世界遺産・プラハからは想像もつかない。私たちのチェコの旅では、トルンカの言葉も取材できた。「人間の日常的な動作をまねて、やたらに動き回っても良い効果は得られない。しかし、じっと動かないでいるとき、人形は人間の演技の遠く及ばないものを力強く表して見せるのだ」「人形には静止状態において最高のクライマックスを創り出すことが可能だ」こうしたトルンカの教えは、国や時代を超えて完全に川本先生に引き継がれたといえるだろう。不易流行という言葉があるが、この教えが後世に引き継がれ、新たな作品が創造されていくことを願って止まない。
【「桃園の会」事務局】
■イジィ・トルンカ
1912 チェコ・ピルゼンに生まれる
1923 近代人形劇の父ヨゼフ・スクパと知り合い、後に彼の主宰する人形劇団に参加
1929~35 プラハの工芸美術大学で学ぶ
1945 プラハの国営アニメーションスタジオの美術監督。数多くの人形アニメーションを発表
1956 第9回カンヌ国際映画祭 特別表彰
1968 工芸美術大学教授就任 絵本「ふしぎな庭」を発表、国際アンデルセン賞受賞
1969 プラハにて死去(57歳)