【第11回】人形芸術の巨匠と歩んだ20年
そのアニメーションは、南プロバンスの不毛の荒地から始まる。色鉛筆で描かれた絵が滑らかに揺れるように動く。主人公は、妻と子を失った孤高の老人で、黙々と荒地に一粒ずつドングリを植えていく。何年も何年も老人の行為は続き、やがて森が出来る。森が水を蓄え人々の豊かな暮らしを創る。かつてはいがみ合っていた人々の声が笑い声に変わる。印象派を思わせるような絵画、緩やかに揺れるように幕を閉じる。
川「木を植えた男」上映会のチラシ (1991年) |
この作品は「木を植えた男」(1987)。ジャン・ジオノ原作。監督はカナダのフレデリック・バック。九千枚の動画を一人のアシスタントとともに描き上げた。私は、この作品を初めて観たとき、溢れる涙を抑えることが出来なかった。連続した一枚一枚の絵画が心の中に沁みこんで涙になって溢れ出てくる感じだった。わずか30分の作品なのに、こんなに優しくて強い作品に出会ったことはなかった。その後も何回となく見て、あたかも実在したかのように描かれている主人公は実在しないことも知ったが、感動は、薄れるどころか、孤高の主人公と、ひたすら絵を描き続ける作者の姿が重なって、さらに増幅していった。
たくさんの人にこの映画を知って欲しいと思い1991年自主上映会を企画した。飯田市役所の先輩・同僚、青年会議所の皆さんなど、多くの方々に後押ししていただき、飯田人形劇場で1日2回上映し、四百人が鑑賞してくれた。この上映がきっかけとなり、「フィルム購入してもっと多くの人に見てもらおう」という運動につながった。「木を植えた男を鑑る会」を仲間と結成し、多くの方から浄財をいただき16ミリフィルムを購入。以降、全国各地で少なくとも50回の上映機会を与えていただいた。
人形劇場での上映会の後、アニメーションの優れた作品をもっと紹介したくなり、川本喜八郎監督アニメーション作品の自主上映会を開催した。川本先生とバックさんが親友だったことに驚いた。もし仮に「あなたの人生を変えた一本の映画は何か」という質問があれば、私は迷わず「木を植えた男」と答えるだろう。1993年にはフレデリック・バックさんに会いたくて、妻とモントリオールまで出向いたが、その時バックさんはフランスの映画祭に出席中で、会うことは叶わなかった。
飯田市美術博物館「安富桜」前にて (1998.4.2) 左からバック夫妻、川本喜八郎、筆者 |
1998年4月転機は訪れた。群馬県主催の植樹祭のためにフレデリック・バック夫妻が来日することとなり、夫妻のプライベートの時間を川本先生が引き受けた。桜満開の時節、はじめ先生は京都を案内しようとしたが、バックさんから「日本の普通の農村を見たい」とのオーダーがあった。川本先生は「ならば飯田を案内します」と答え、バック夫妻を飯田市にお連れになったのである。
私は川本先生から運転手兼案内役の指名を受け胸が高鳴った。夢を見ているような感覚でもあった。先生は「作品そのままのような方ですよ」とおっしゃった。お会いすると、本当に作品のように、たおやかで、強い信念がある方だった。美術博物館の安富桜は満開で、美しく清楚だと喜んでくれた。天竜峡の龍峡亭で泊っていただいた。早朝、天竜川の川辺を散歩したバックさんは「いつまでもここに居たい」と言ってくださった。
立石寺山門の前にて (1998.4.2) 左からバック夫妻、川本喜八郎 |
立石の農村風景も丁寧にご覧いただいた。三穂から山本へ抜ける道中、バックさんは、「車を止めてください」と言い、下車して梨の花の写真を撮っていた。浪合村(現・阿智村)のトンキラ農園でバックさんと共にブナの苗木を植えた。バック作品のように穏やかに時は流れた。その日、中津川駅まで送る予定が、結局京都まで送ることとなった。車中はバック夫妻と川本先生が英語で語り合い、笑い声が絶えなかった。京都市内のホテルに着いたのは22時を過ぎていたと思うが、ロビーで、私は下手な英語でバックさんに「木を植えた男」への想いを伝えた。その時のバックさんの優しい笑顔は私の一生の宝物となった。
【「桃園の会」事務局】
■フレデリック・バック
1924年 フランス・ザールブリュッケン(現・ドイツ領)に生まれる
1948年 文通で知り合った女性と会うためカナダ・モントリオールへ
1949年 文通の女性ギレーンと結婚。カナダ移住
1981年 「クラック!」アカデミー賞短編アニメーション賞
1987年 「木を植えた男」アカデミー賞短編アニメーション賞
1994年 「大いなる河の流れ」広島アニメフェスなどで最高賞
2011年 フレデリック・バック展(東京都現代美術館)開催のため来日
2013年 死去