【第8回】人形芸術の巨匠と歩んだ20年2022.10.23

連載 第8回日本画家・壬生露彦さんのこと遠山 広基


川本喜八郎先生が、チェコのイジィ・トルンカの許での入形修行から日本に戻って、「花折り」(1968)、「鬼」(1972)、「道成寺」(1976)、「火宅」(1979)、「蓮如とその母」(1981)と、立て続けにアニメーション作品を発表する。緊張感のある計算されつくした画面は、精緻な演出もさることながら、背景の日本画と人形のコントラストが、世界に類を見ない独特な世界を創り出している。川本作品は、音楽には武満徹、語りには観世静夫(八世観世銕之亟)といった超一流のスタッフ・キャストにより支えられている。美術を担当するのは日本画家・壬生露彦さんだ。

「不射之射」(1988)
「道成寺」(1976)
壬生露彦さんの日本画が背景となっている
©(有)川本プロダクション

「壬生さんは長野県の方ですよ」川本先生ははじめてアトリエに出向いた私にそう説明してくれたが、実は下伊那郡豊丘村壬生沢出身であることを、1992年、飯田のはじめての川本作品上映会の場に、壬生さんご本人が来てくださってはじめて知った。このとき上映した映画「鬼」「道成寺」「火宅」の3本はすべて壬生露彦さんの美術が支えるアニメーションだ。川本人形アニメーションの代表作を飯田下伊那出身の美術家が支えていたのだから、私はこの時ほど不可思議な「縁」を感じたことはない。

壬生露彦さん
(1992年)
川本喜八郎さん(左)、壬生露彦さん(右)

壬生露彦さんは中央画壇での栄達を求めず、職業画家として絵を描き続けた。生涯に描いた日本画は実に一万枚を超えるという。外国人がおみやげによく購入したという。「私の絵が最も人気があってよく売れていたんで、忙しかったですよ」と壬生さん。また、「川本さんは、友人に著名な方が多いからお付き合いが大変ですよ」としみじみと私に語ったことからも推察するが、画家としての地位や名声、画壇での社交といったものを好まなかったといえる。しかしながら、たとえば日本画の技法「たらし込み」にかけては壬生さんの右に出る人はいないと言われるほどの技術をお持ちで、日本画の塾を開いていたところ、劇作家・飯沢匡氏の目に止まり、川本アニメーション作品のための美術家として推挙を受けることなった。一方、「不射之射(ふしゃのしゃ)」(1988)は上海のスタジオで製作・撮影された川本アニメーションで、日本画は使われていない。

「不射之射」(1988)
「不射之射」(1988)
立体セットの中で撮影された。日本画の背景の作品とは人形の固定方法が異なる
©(有)川本プロダクション

私はこの「不射之射」を川本先生のアトリエで見せていただいた。この作品では背景となるセットがすべて立体だったため、チェコのイジィ・トルンカの世界を彷彿とさせてワクワクした。私はすかさず「立体の背景はお金がかかるんでしょうね」と質問したが、案の定これは的外れな指摘で、川本先生から次のように教えていただいた。「立体のセットを作る方が安くできますよ。僕は、高価でも壬生露彦さんの日本画を背景にして人形を使うことで、平面なのか立体なのかわからないような不思議な世界を創りたかったんです。平面を背景にすると人形の支え方もとても難しくなります。たとえば人形が歩くとき、立体ならセットに実際に足をつけて歩かせればいいけれど、背景が平面だとそうはいかない。背中から突き出した棒でもって人形を支えてアニメーションするというような工夫が必要なんです。『どうやって撮ったんだろう』って観客に思わせる、そういうところが醍醐味なんです」この言葉からも分かる通り川本アニメーションの真骨頂は、壬生露彦さんの日本画を背景とする作品群にあるといえるのである。

ともあれ、伊那谷が生んだ芸術家・壬生露彦さんの日本画が川本喜八郎アニメーション作品の中に永遠に固定されていることは望外の喜びであり、川本作品を鑑賞するときの秘かな愉しみとなっているのである。

【「桃園の会」事務局】


■壬生露彦 みぶつゆひこ
1920年 伊那郡豊丘村壬生沢に生まれる。上京し日本美術院同人太田聴雨に師事する
1949年 第2回長野県展奨励賞を受賞
1968年 「花折り」から川本喜八郎作品に参加
2011年 死去

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