【第5回】人形芸術の巨匠と歩んだ20年2022.07.23

連載 第5回人形劇のまち・飯田遠山 広基


1992年1月、自主上映会に向けた打ち合わせのために訪れた東京千駄ケ谷にある川本喜八郎先生のアトリエから戻った後、私はいつも色んな企画事の相談に乗ってもらっている市役所先輩の高橋寛治さんに、川本先生とのやりとりやアトリエの様子を伝えた。すると高橋さんは「この本を先生に送ってやりな」と言って、差し出した本は、飯田市美術博物館特別展図録「伊那谷の人形芝居」と飯田市美術博物館調査報告書1「伊那谷の人形芝居『かしら目録』」であった。私はこういうお礼の仕方があるのか、と思ったくらいで、本の内容はあまり理解していなかった。

本を送るとすぐに川本先生から手紙で反応があった。「私は人形の研究者でも学者でもなく、単なる美術家ですので、伊那谷にあれだけの古い人形の文化があることを不明にして知りませんでした。本当に感動的です。今度伺った折に、詳しく教えて頂きたいと存じます」これらの本は、伊那谷にはかつて29の人形座が存在していたこと。現存するのは4座のみだが、人形のカシラは、中には屋根裏や土蔵の片隅などに放置されていたものまで含めて、その数実に783であったこと。長野県の中では伊那谷のカシラの集積が圧倒的であること、また全国に目を向けても特異な状況であること、などが書かれていた。振り返れば、この本が、飯田・伊那谷という地域を、川本先生が本質的に理解する始まりだった。高橋さんは相手が専門家であろうが巨匠であろうが、一撃で心をつかむ術を心得ていたのだと思う。

大宮八幡宮(今田神社)にて(1992年7月22日)
大宮八幡宮(今田神社)にて(1992年7月22日)
左から川本喜八郎さん(左)、木下文子さん(右)

1992年2月に第1回目の自主上映会を開催した後の7月、川本先生は飯田を訪れた。この地域における人形のことを深く知りたかったからである。この訪間をコーディネートしてくれたのはやはり高橋寛治さんだった。案内の中心に郷土史家・日下部新一さん、黒田人形は桜井伴さん。今田入形は木下文子さんをお願いした。そこで交わされた一つひとつの話題に川本先生は関心を示され、感動している様子だった。私は川本先生について歩きながら先生の反応を追った。恥ずかしながら先生の一歩後ろで飯田について学ぶという感じだった。東京の自宅に戻った先生から間もなく、次のような手紙が届いた。

太念寺にて吉田重三郎・桐竹門三郎・吉田亀造の墓の前で(1992年7月22日)
太念寺にて(1992年7月22日)
吉田重三郎・桐竹門三郎・吉田亀造の墓の前で左から筆者、川本喜八郎さん、日下部新一さん、桜井弘人学芸員

「僕は不明にして、日本に『人形』を『文化』と認めている人々が居る地域があるという事を今まで知りませんでした。お送り下さった黒田人形の本を一気に読んでしまい、その歴史的な背景がドラマにでもしたい様に活き活きとしているのに驚きました。人形狂いをしたお坊さんの正岳真海が種を播き、淡路から流れてきた吉田重三郎や大阪から来た桐竹門三郎などが育て、そして飯田の代田斉をはじめとする若者たちが芸を受けついでいった、というこの歴史を、更に今日、まとめる人たちが居る、ということに大きな感動を覚えます。これは、もっと人形に関心のある人々に伝えなければならない本当の人形文化なのではないでしょうか。古典の人形のかしらをジッと見ていると、この人形たちが、ずっと地域の人達に愛されて、自分たちの生活『文化』として生まれ育って過してきたのだなァということを感じ、また、それが現在も、そういう心を持った子孫たちに守られて存在し、美術館の中に居る、という事に、ひどく感動いたしました。『人形劇のまち・飯田』はそのように云われるだけの理由があったのだと、いうことを、はなはだ遅まきながら、肌身で実感し、今まで余り知らなさすぎた自分を恥じ入りました」

私は、この手紙を目にした時、それまで当たり前に使っていた「人形劇のまち・飯田」という言葉に、誇りと愛着が芽生えた。

【「桃園の会」事務局 】

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