【第2回】人形芸術の巨匠と歩んだ20年2022.04.23

連載 第2回出会い遠山 広基


1990年、日中合作大型人形劇「三国志」特別公演が飯田文化会館で行われた。その時が川本喜八郎先生の当地への初来訪だった。公演終了後には人形美術家として舞台挨拶とサイン会が開かれた。そこで私は先生と初めて言葉を交わすことができた。「いつの日か先生のアニメーション作品をここ飯田で上映してみたいです」と語った。1991年、私は飯田ではじめての自主上映を行ったが、選んだ作品は、カナダのアニメーション監督フレデリック・バックの「木を植えた男」(1987)だった。ジャン・ジオノ原作。南プロバンスの不毛の地をたった一人の男が森に変えていく物語で、わずか30分のアニメーション映画がこんなにも深い感動を与えてくれることが奇跡だと思い、たくさんの人に知って欲しかった。

この上映の後、私は次の自主上映作品を模索し始めた。真っ先に浮かんだのが、私が18歳の頃、あまりの美しさに打ちのめされた川本喜八郎監督「火宅」(1979)だった。川本先生の人形アニメーション作品を上映し、併せて先生から直接話がお聞きできれば、良い企画になるかも知れない。「火宅」はブルガリア・バルナ国際アニメーションフェスティバルでグランプリを獲得し、世界最高評価にあった。飯田の中での知名度は全く無いに等しいが、人形劇の素地があるこの地なら受け入れてくれるかもしれない、という淡い期待から作品上映会に踏み切った。

「東京渋谷区千駄ヶ谷のアトリエにて」はじめて訪れたアトリエで案内してくれる川本喜八郎さん (1992年1月10日)
「東京渋谷区千駄ヶ谷のアトリエにて」
はじめて訪れたアトリエで案内してくれる川本喜八郎さん
(1992年1月10日)

まず、上映と講演のお願いのため、東京千駄ケ谷にある川本先生のアトリエを訪れた。代々木駅から明治神宮方面へ歩いて5分ほどのところにあった。家の外観はいかにも芸術家といった風情がある。平屋のこじんまりした家に見えたが、道からJR中央線に向かって下り地形にあり、玄関を入ると目の前に下階のアトリエまで続く階段があった。アトリエで三国志の人形たちとともに目に入ったのが、壁に掛けられたフレデリック・バック「木を植えた男」の原画だった。「先生、これはフレデリック・バックの原画ですか?」「そうですよ」と先生。「なぜお持ちなんですか?」と本題から逸れた不躾な質問を繰り返した。「親友だから、いただいたんです」今思えば実に自然なことだが、私の中だけで繋がっていると思っていた2人の世界的巨匠が、真に友人同上であるということが驚きだった。

上映会に関しては快諾いただいたものの、講演については、「一人で話すのは苦手だから、あなたが聞き手になってください」と嘆願された。「え!?」私はこの巨匠から話を引き出せるような度量は到底持ち合わせていない。これは困ったことになったと焦ったが、もはや引き返せない。それから本番さながらで先生から聞き取りを行った。かくして1992年2月、上映会&トークショーの当日を迎えた。千劇(現在のセンゲキシネマズ)の地下ホールを満席にする250人に先生の代表作「鬼」(1972)、「道成寺」(1976)、「火宅」の3本とトークショーを鑑賞していただいた。

「千劇(現セングキシネマズ)にて、はじめてのトークショー」川本喜八郎さん(右)、著者(左) (1992年2月20日)
「千劇(現センゲキシネマズ)にて、はじめてのトークショー」
川本喜八郎さん(右)、著者(左)
(1992年2月20日)

トークショーでは、「僕は人形には出来た時から生命があると思っているんですけど、その生命力というものをやっている人たちが見つけ出して、その生命の輝きを増していく、そういう作業なんですね」「飯田は人形との関わりが何処よりも深いまちじゃないかと思います。ここでは知らず知らずのうちに人形と関わりあい、他のところとは違う教養を持っているんじゃないかと思います」とおっしゃった。

また、終了後のアンケートでは「まるで人形が生きている様だ」という感想が多く寄せられたことが、川本先生を心の底から喜ばせたのだった。

【「桃園の会」事務局 】

お知らせ一覧へ戻る