崇徳院
- 平家物語
- 3月28日(水)13時33分配信
崇徳院(すとくいん)
第七十五代天皇。母は待賢門院。父の鳥羽院により、弟・近衛帝に強制的に譲位させられ、これにより崇徳、鳥羽の対立は激化する。1156年鳥羽院の死をきっかけに保元の乱がおこり、左大臣藤原頼長とともに後白河帝を襲ったが敗れ、讃岐に流され、同地で、世を恨みながら没した。
崇徳院(すとくいん)
第七十五代天皇。母は待賢門院。父の鳥羽院により、弟・近衛帝に強制的に譲位させられ、これにより崇徳、鳥羽の対立は激化する。1156年鳥羽院の死をきっかけに保元の乱がおこり、左大臣藤原頼長とともに後白河帝を襲ったが敗れ、讃岐に流され、同地で、世を恨みながら没した。
孫権仲謀(そんけんちゅうぼう 182~252)
字は仲謀。
呉の初代皇帝。父の孫堅、兄の孫策の後を継いで、19歳の時江東の主に。
赤壁の戦いでは曹操軍との開戦を決断し勝利を収め、のちに劉備から荊州を奪還する。晩年は後継者問題で道を誤った。
待賢門院(たいけんもんいん)
藤原璋子。白河法皇に溺愛され、養父子を越えた関係と噂された。鳥羽院のもとに入内し、運命の子・崇徳幼帝即位と共に国母となったが、彼女の生涯は晴れることのない、侘しいものだったに違いない。せめてもの救いは歌の道で、西行らを友とし、出家の後、仁和寺で四十五歳で崩じた。
司馬懿仲達(しばいちゅうたつ 179~251)
字は仲達。曹操に登用され、才知を発揮し認められる。蜀の諸葛孔明の好敵手として五丈原で対峙、よく中原を守った。のちに魏の政権を握り、死後、孫の司馬炎が晋を建国、三国時代は終焉する。
美福門院(びふくもんいん)
藤原得子。鳥羽院の寵姫で近衛帝の母。藤原忠通の養女・呈子を我が子同様に育て、末は近衛帝の皇后に、と考えていた争いは忠通の弟、頼長に押し切られて敗れた。美福門院の頼長に対する恨みは、我が子・近衛帝の夭折で頂点に達し、頼長を失脚に追い込む。
郭嘉奉孝(かくかほうこう 170~207)
字は奉孝。曹操の片腕といわれた幕僚で、曹操の中原制覇の際にその知略を遺憾なく発揮した。後顧の憂いを危惧するなか、曹操に袁紹の残存勢力を一掃することを決意させた功績は大きいが、途半ばで陣歿。
夏侯淵妙才(かこうえんみょうさい ?~219)
字は妙才。従兄の夏侯惇とともに曹操挙兵以来の武将。曹家との血縁的なつながりも深かった。常に戦陣に従い数々の武功を挙げたが、劉備との漢中争奪戦のさ中、定軍山で老将黄忠に討たれた。
鳥羽院(とばいん)
第七十四代天皇。平安末の混乱期に当って政治の座にあった。宮廷内の内紛の主人公であり、子・崇徳天皇との不和が、その死後に保元の乱を引き起こす。その生涯は祖父・白河の仕打ちに対する復讐に終始したように見える。
曹操孟徳(そうそうもうとく 155~220)
字は孟徳。後漢末の動乱期に献帝を擁し、赤壁の戦いでは敗れるも中国北方を領有、魏国の基を築く。建安文壇をリードした当時一級の詩人でもあり、「非常の人、超世の傑」と賛辞を送られている。
木工助家貞(もくのすけいえさだ)
伊勢平氏の父祖伝来の郎党で、武家の家訓を守り、主従の礼を崩したことのない忠義者。
平治の乱前夜、熊野参詣の折、都で起ったクーデターで、武器を持たない清盛が思案に暮れている時、木工助は必要な武器のすべてを揃えて清盛の前に示す。木工助がいなければ、清盛はなかった、といっても過言ではない。